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アラン・コルバン『知識欲の誕生』

知識欲の誕生 〔ある小さな村の講演会1895-96〕

知識欲の誕生 〔ある小さな村の講演会1895-96〕

19世紀末、フランス中部の小村の小学校を舞台に開催された講演会。その講演の様子、そこに詰めかけた人びとが見聞きしたものごとを、史料を元に復元しようとするこころみ。

本書の中で「知識欲」という語が指しているのは、うわさ話として水平的に広まる情報についての需要を指すものではない。それは、明確な権威があり定められた情報源を持つ近代的な「知識」についての需要である。そのような欲求の存在を証明するものとしてこの共和派の一小学校教師の講演が取り上げられている。

本書の主題とは関係がないが、この講演者のことば(それはコルバンによって再現されたものだけど)を聞いていて、修正主義について思いいたしてしまうところが幾度もあった。

〔講演者・ボモール氏〕「・・・この冬、私がオルレアンの乙女について話すことにしたのは、昨年、カトリック教会、教権支持派、国粋主義者たちによるこの横領の試みが頂点に達したからです。」(コルバン、2014/10、92ぺ)

歴史を自らと自らが所属する集団の礎とし、正当化材料とすること。19世紀に顕著になり、20世紀の第3四半期までも一般的に行われてきたことが、次の四半期にはひとの感情を踏みにじってでも自分たちのアイデンティティを正当化することはやはり正当なことなのだという、(それを唱えることで自分自身をはぐらかしていることにしかならない)結論に帰着する。もっともフランスにおけるそれは日本におけるよりも遅れて最近になってやっとかしましくなってきた様子。

ひとが自分の身体という空間的限界と寿命という時間的限界、クラスという社会的限界のすべてを見据えてもなお自身の意味を感じられるのが、親密なものであれあ匿名のものであれ人間関係においてしかないのだとすれば、そうした運動──強引にでも「歴史」を編み直し、「共同体」を創造し、「世代」どうしを結合させ、「利害」「理想」の対立に目を瞑る──もなくなることはないのだろうけど、やはり見ていてさもしいものがあるのも事実である。