M12i.

学術書・マンガ・アニメ・映画の消費活動とプログラミングについて

『Kotlinイン・アクション』を読んでKotlinへの興味が尽きた

Kotlinイン・アクション

Kotlinイン・アクション

最初に言っておきますが、『Kotlinイン・アクション』はいい本です。プログラミング言語Kotlinについて丁寧に紹介しており、言語仕様はもちろんJavaとの統合についてしっかりと説明をしてくれています。さらにこの言語が提供する機能が従来のJavaによる開発であれば苦痛であったことの多くを解消してくれるのも事実です。おまけにベンダーの方針などを念頭に置くならば、Androidアプリ開発でこの言語を選択するのは妥当なものでしょう。この点異論はありません。

ただ本書を読んでいくとKotlinという言語を学ぶモチベーションが萎えていきます。この本を読み進めることで、Kotlinの構文の中にはJavaよりも却ってコード量が増えるものがあったり、同じキーワードを使っていながら機能的に異なっており明らかに他の妥当なキーワードがあると思われるものがあったりと、せっかく新言語として構想されたのに設計が甘いと感じられるところが節々登場します。Kotlinにおけるthisの記載について、Javaと異なる構文を採用していながらJavaと同じかそれ以上に特殊で一貫性を欠いた面倒な構文になっていることに、大変残念な気持ちになりました。Kotlinにおけるキーワードinterfaceが実際の機能に即してみるなら本当はtraitであるべきという点にもがっかりさせられました。Javaにおけるinterfaceはその歴史的な変遷や言語拡張についてのポリシーのために「実際はtrait」になってしまったわけで、過去に準拠する/束縛される言語としての選択ですから、これはもう仕方ない。しかし言語的に新規に構想されたKotlinがこれと同じことをしていることには納得が行きません。

そしてKotlinの構文が「Javaに似ている」とは言っても大小の違いはおびただしくあり、それらの学習コストは消して少なくありません。Kotlinで書かれたコードとJavaで書かれたコードがお互いにアクセスするとき注意しなくてはならないことも多々あるはずです。だからといって「このままJavaでいこう」などと言うつもりもなく、ただ学習コストの発生を前提にしてより生産的なコーディングを目指すならKotlinを学ぶよりはScalaなどを学ぶほうが得るところは大きそう、ということです。

『テルアビブ・オン・ファイア』は面白い


映画『テルアビブ・オン・ファイア』予告編

パレスチナの人気テレビドラマ『テルアビブ・オン・ファイア』の脚本制作に関わることになった青年が主人公の映画。主人公やその周囲の人びと、検問所で関わり合いになるイスラエル軍人も含め、登場人物のそれぞれがそれぞれの仕方で、半世紀も続く終わりなき対立にうんざりし諦めを感じている。そうした中で劇中の人間模様と劇中劇の人間模様がオーバーラップしながら進行する。ドラマのクライマックスと現実世界を生きる自分たちの未来はどうあってほしいのか。生か死かの闘争も非現実的なロマンスも、どちらにしろ自分たちが望むものではない。次々現れる障碍を乗り越えながら最終的に主人公はどのような「脚本」を書くのか──という感じのお話。分断された私たちの生活世界を再統合し、対等な関係を気づくにはどうしたらよいのだろう。困難ではあってもそれを考えていこうじゃないか。そういうメッセージを強く感じた。

若尾政希『百姓一揆』

百姓一揆 (岩波新書)

百姓一揆 (岩波新書)

一揆」の実態はどのようなものであったか、それは時代ごとにどのように異なっていたか、現代の私たちが思い描く「一揆」イメージだけでなく、「一揆」を語る史料の記述がどれくらいまで実態とかけ離れているか、そのズレがどのように生み出されてきたか。「一揆」という歴史学の概念の研究を通じて、科学的な概念がどれほどまでにフィクションの世界と地続きのものであり、学術的な努力の積み重ねが「場」の外の要因に左右されながらも、その概念の理解を徐々に正確なものとしていく様が示されている。科学の科学、知識社会学、科学哲学論の材料として読むと面白い。