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学術書・マンガ・アニメ・映画の消費活動とプログラミングについて

ひとが一人いなくなるということ

昨年(2017年)秋から親が入院してドタバタしていました。その後年初(思えばちょうど5ヶ月前のこと)には当人が永眠してさらにドタバタ。遺産をめぐりシングル世帯同士の間で合意の上の限嗣相続みたいな手続きを行うためにまたドタバタ。ひとが一人日常生活を離脱していき、さらには特殊な状態の生活をすら終えてしまうということは、物理的にも精神的にもたいへんなイベントなのだということを痛感しました。

物理的というのはもちろん世帯のメンバーの欠員によりいろいろな作業が残されたメンバーに降り掛かってきたり、葬祭に関わるあれやこれや、国や自治体への届け出、金融機関とのやり取りが必要になったりということです。精神的というのはこれはひとによって感じ方はちがうのでしょうけれど・・・こころのなかにぽっかり穴が開くというのはなるほどこういうことかという状態のことです。

彼の亡くなる以前のことも以後のことも、ああすればよかったこうすればよかったが尽きません。ひとがその生を終えようとしつつあるときにどのようにして彼・彼女を送るべきか。今回のことと前後して読んでいた社会学的論考のなかで、その著者はいわば「死別の作法」というべきことごと(看病の仕方、告知の仕方、臨終のまさにそのときの迎え方、葬送の仕方など)が宗教的なものにせよ非宗教的なものにせよ常に型にはめられたものへと回帰していってしまうことを執拗に指摘しています。これは「自由」に関するナイーブな態度と言えるでしょう。

死別に関することに限らず、ひとの行う差異化とは完全新規で独特のやり方を発明することではなく、所与のあるカテゴリと別のあるカテゴリとを対照させることで行われるものではないでしょうか。その差異化の過程で所与のカテゴリが解体されて複数に分けられたり、統合されたり、忘れ去られたりする。あるいは誤差が生じてふいに新たなカテゴリが創始される──話はそれますが、統廃合と誤差、その結果生まれるものを独自性・創造性の発露として評価するよう要求して、個人や個人の制作物に至上の価値を与えようとする運動が芸術ということになるのではないでしょうか──したがって真の問題というのはある選択が「自由」か否かということではなく、その選択がどのような条件のもとで行われるかということでしょう。あるひとがある作法を選ぶ。別のあるひとは別のある作法を選ぶ。その選択のちがいや、選択の機会のちがいが何に由来するかを論じることでしょう。「自由」そのものをうんぬんするのは政治的ないし法律的な議論です。「ひとが何を以て自由とするか」ということこそ社会学的な議論でしょう。

自分自身の体験として親との死別の経過を思い起こすときその選択肢の問題はまだ十分に客観化されていないようです。もしもあのときああしていたら・・・しかしああする以外にどうしたらよかったろうか・・・という思考はまだその選択の由来を云々するステップには進んでいません。

死と死別の社会学―社会理論からの接近 (青弓社ライブラリー)

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