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学術書・マンガ・アニメ・映画の消費活動とプログラミングについて

額賀澪『さよならクリームソーダ』

さよならクリームソーダ

さよならクリームソーダ

作者の単行本4冊目。技術系の本を読むのに忙しく、しばらく積読化していました。

新しい「家族」を構築しようともがく人びとと、本心からはその意に沿うことができないまま自分の意思を抑圧したり、「家族」の中に居場所をなくしてしまい、結果そこから反転して暴力的に「家族」から距離を取ろうともがく人びと。その両者の「エゴ」のギリギリの妥協点の模索というか、限定された統合のようなものがテーマです。例によってこんなふうに要約して紹介記事として意味があるのかわかりませんが・・・読後感としてはそんな感じです。

作品の中で描かれているような、かくまで意欲的な「統合の努力」も「統合の拒否」も私には経験がありませんが、程度や形態の問題を別にすればいずれもどこか「覚え」のある感覚ではあります。私事で恐縮ですが高校時代に何かの拍子に当時の担任教諭から「片親だからって特別扱いされると思わないで」というコメントを貰ったことがあります。「なんだこのターゲット選択が意味不明なバックラッシュは」というのが当時そして今しもの感想ですが、実際のところ周りに目を向けるとそこら中に片親世帯や再婚世帯、それにいわるゆ「崩壊」しかかった家庭というのがあったので、余計に「特別なんてことあるものか」と困惑させられたものです。もちろん言説のレベルでいえば「普通」と「異常」を区別しようとする意思みたいなものはたしかに厳然と存在するわけですし、私の育った環境が中流社会であればこそ問題となる確率の低い経済的なリスクみたいなものも厳然としてあるわけで、それやこれやのコンテキストがあればこその教諭の発言ではあるのですが。とまれそんな当時の私の周囲の「家族」事情をみるに、本作で描かれているテーマに部分的にも共感を覚える人は少なくないのではないかと思います。

より一般的にいうと、「家族」とくに核家族がここまで人のこころを捉えるテーマとなったのはなんでだろうか? そして「家族」をめぐる各々の「かくあるべし」と思うところ・願うところが「エゴ」として概念的に捕捉されて、それが擁護や排撃の対象になるまでに一体何があったのだろうか?と考えさせられる作品です。