M12i.

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P・ブルデュー『写真論』

写真論 〈新装版〉: その社会的効用 (叢書・ウニベルシタス)

写真論 〈新装版〉: その社会的効用 (叢書・ウニベルシタス)

写真。それを撮り、撮られ、撮らせ、撮ったものを交換し、壁にかけ、それについてまた評する。その各種の実践が、農民と都会人、労働者と勤め人と自由業者にもたらすもの、彼らがそこに期待するものとは?

〔…〕数多の紋切型の対象である写真の実践は、おそらく他の何もの(観光旅行は多分例外であるが)にもまして、実践に関する客観的イメージの自意識を内包している。そして個々の写真家はすべて、各人の実践に際して、自分が他者の実践に関していだくイメージと他者が自分の実践に関していだくイメージに客観的に依拠している。この実践を通俗的な実践と受け取るがゆえに、上流階級の構成員はそこに、熱意や情熱にふさわしい対象をみることを拒否するのではなかろうか。「私の夫は写真をやりません。あの人は何をすべきか心得ています」と上級管理職の妻は言い、その夫は夫で自分のやらない理由を次のように説明する。

「私は写真を撮りたくありません。みんな撮りすぎですよ。もう何もみずに、写真を撮ることしか考えていないのですから。ばかげてますね」。

 これに関して、事実を明らかにするよりはむしろそれ以上に、事実を覆い隠す合理化しかみないとすれば、それは方法の口実の下に方法論的過誤に陥ることになるであろう。事実、諷刺的な逸話や写真に熱心な或る種の人々の滑稽な振舞いに対する批判的で中途半端な考察などで成り立っている全く自然発生的な社会学〔≠反省的な社会学〕が存在する。〔…〕ピエール・ダニノスの著作の成功は、それら著作が、貴族的階層の偽善的に洗練された野望や、写真やテレビジョンへの情熱の内に表現されている中流階級の通俗性などとの対比を通して、自分たちは最良の生活術を保持しているという確信をそられを読む人にいだかせるという点を見抜くことなしに、理解できるだろうか。〔82〜83ページ〕

モーリス=鈴木の『過去は死なない』の再読からの文献参照で、久しぶりのブルデュー。とりあえず第1章を読んだところでひと休み。

ブルデューが分析をした当時から今日までのあいだに、写真をめぐる実践の状況──その撮影の方法、流通の方法、撮影するクラスの変化などはだいぶ変化してきたはず。実践を分析し、分析する主体をすら分析する。再帰的な考察は私たちに何を見せてくれるだろうか。