M12i.

学術書・マンガ・アニメ・映画の消費活動とプログラミングについて

「冷静さを欠いた」人びとについて

最近のNHKが聴くに(視るに)堪えないのは、原子力発電所事故による種々の損失の原因を、「冷静さを欠いた市民」にのみ求めていること。

NHKニュースは事態を「風評」の名の下に、倫理的問題にすり替えている。そこでは原発の危険性をごまかすことまではできないまでも、その「危険性」は大学教授たちの口を借りて繰り返しくりかえし過小評価されており──それが「冷静さ」などでなく単なる過小評価でしかないのは、時偶彼ら自身がこぼすコメントからよくわかる(「格納容器が水素爆発するとちょっとまずい」。それは「ちょっと」ですか?)──いずれにしても、それを許してきた政治の問題が言及されない。

「基準」なるものがきわめて恣意的かつ可塑的であることはよくよく判明している。人びとがすこしでも危険を避けるように行動するのは、当然のことであって、とりわけ政府の発表も東電の発表も──どちらも情報隠しと発表遅延の常習犯なので──信憑性のないことがはっきりしている状態で、NHKや政府関係者が「風評」という語彙を使用するとき、彼らがそこにどういう役割を負わせているかは推して知るべし。

そこでは事故に起因する──人命・健康の問題はともかく(それらは過小評価のターゲットである)──経済的機会損失、経済的実損失、社会的損失の責任は、「例によって愚かしい行動しかとれない消費者」に負わされる構図となる。

けれどももし人びとが責任追及されるとしたら、それはより安全でクリーンなエネルギーでなく、あえてより危険でダーティーなエネルギー(そして「ダイニングはあるけどトイレがない」エネルギー)を導入する政策を、投票行動その他の政治行動を通じて選んできたことのはず。

もちろんそもそもを言えば、ニュース、とりわけ「ニュースキャスター」を強調するニュースの日本的形態が、報道の場を単なる倫理的断罪の法廷のようにしてしまっていることが前提にはあるように思う。

そういう状況では彼らの仕事は、調査、分析、意見することではなく、あらかじめ提供されている話題を(≠調査)、人口に膾炙した基準で(≠分析)、当たり障りない説教をしてきかせること(≠意見)、となる。