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『ウィッチ』を観てきました


ダーク・ファンタジー『ウィッチ』予告編解禁

どういう経緯によるものか忘れましたがFilmarksで登録していた『ウィッチ』を観てきました。舞台は入植時代の北アメリカ。主人公は熱狂的なプロテスタントの家庭に生まれ育った少女。父親は信仰に関わる何らかの理由で入植者コミュニティと衝突。結果家族はコミュニティのプランテーションから追放されて、未だ開拓されていない原野、針葉樹の暗い森の近くに移り住みます。ところがその森には不穏な気配があり・・・。

観終わったところでの感想としては、魔女とそれをめぐる恐怖や狂気を取り扱ったものとしては何だか物足りないなという感じです。雰囲気の演出は悪くないと思います。物足りなく感じたのは「魔女」表象とそれを生み出す同時代人の感性の描き方。「魔女」を自分たちの日常世界からかけ離れたもの、それを侵害するもの、「野蛮」で「残酷」で「狂気」を孕んだものとして規定する、そしてそれに対する「自分たち」=「主人公たち」の恐怖を描き出す、というのはオーソドックスなものではあります。でも、歴史学社会学(あるいは文化人類学)で中世〜近代の農村社会のあり様の一端を垣間見たうえでこうした作品を見るとなると、やはり足りないと感じるのです。

「魔女」という表象を生み出す「主人公たち」もまた、なるほどそれにふさわしくというべきか、今現在の私たちからするとぎょっとするような「野蛮」で「残酷」で「狂気」に満ちた日常正解を生きていたはずです。それらの「異常」性は本作の主人公たちが元いたコミュニティから排除される要因となった(らしい)熱狂的プロテスタンティズムによってだけ説明されうるものではないでしょう。だから私たちが真の意味で「魔女」と対峙する時、私たちはまず最初に「主人公たち」=中世〜近代の農村社会の住人たちの日常世界に対する強烈な違和感と対峙することになり、次にそれらと本来同種でありながら対抗関係にある「魔女」たち(対抗するものとして「主人公たち」のコミュニティから弾き出された「魔女」たち)への違和感と対峙することになる、そういう順序なのだと思います。

もちろんこの作品を作った人たちの意図というのは、歴史考証を入念に行って社会史的な意味におけるリアリティを追求することではなく、現代以降の日常世界に生きる私たちが自分たちの感性を中世〜近代の農村社会の住人たちにそのまま適用するという一種のアナクロニズムを土台にして想像された「魔女」像を、そのできるだけ「生々しく」描くことなのでしょう。だからそこをあまり指摘しても仕方ないだろうとも思うのですが。。