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渡辺優『ラメルノエリキサ』

ラメルノエリキサ

ラメルノエリキサ

「復讐癖」を自認する主人公が、ある日夜道で自身に切り傷を追わせた犯人を追いかけながら、母親や姉に対するアンビバレンツな感情に向き合っていくお話。

理不尽な暴力を受けて、右腰には傷が残った。いろいろな不便を強いられたし、夜道で音楽を聴くときには不安を覚えるようになった。とても不快で、許せない。傷は消せないし、時間は戻せない。でも、こんな風に害された状態のまま生きていったら、私は歪んでしまう。歪んでしまった私を、私は愛せるだろうか。自分自身にすら愛されなくなるなんて、耐えられない。私はすっきりする必要がある。(155ペ)

──というわけで、主人公の「私」は護身用のスタンガンと犯人が落としたバタフライナイフを鞄に潜ませ、容疑者宅に乗り込んでいくわけです。

その「復讐」は文字通り概念的には前近代におけるそれで、焦点が氏族や家族でなくて個人だという違いはあるにしても、目指されるものは物理的・経済的・社会的といった明確な区別のない「ある損なわれた状態」に対する回復としての「復讐」。ある害悪に対する、ひたすらにプライベートな(非・公的な)、防衛・賠償措置です。

そして「復讐」は当然個別の事案に対してのものなのですが、そのような「復讐」を条件反射的に企てる「復讐癖」は主人公の置かれた(置かれていると認識している)状況に対する反応、不断の「復讐」過程として描写されます。

私はいつか、ママの愛する「ママの娘」という像の前に立ちはだかりたい。これが復讐欲求なのか、ユングさんの言う精神的母殺しなのか、ただのいじわるなのかはわからない。けれどとにかく、これまで完璧なママの完璧な娘だと信じて愛を注いできた対象が、復讐癖と腐った根性と肥大した自己愛を持ち合わせた、この私だったと教えてあげたい。ママの作る完璧な家族をぶち壊したい。そのときのママの顔が見たい。(119ペ)

つまり、主人公が真に対峙しているのは近代的な刑事罰概念などではなく、「完璧なママ」や「ママにそっくりの姉」が体現する近代的な「母性」や家族観──主人公が心からの安らぎを得られない原因のすべて。

こうした、半ば以上に自覚的で、何層にも偽装を施された本音の裏側で、いつもモヤモヤとした感覚のなかで葛藤する主人公、その主人公の視点で語られる事件の顛末、そのいずれにも重たさはなく抵抗なく読める内容。面白かったです。