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G・フローベール『ボヴァリー夫人』

ボヴァリー夫人 (上) (岩波文庫)

ボヴァリー夫人 (上) (岩波文庫)

上下巻を通じて、フローベールの階級論がそこここに展開される。エンマとレオン(あるいは彼女とシャルルやロドルフ)のやり取りをとおして、異なる階級間の人間が相まみえた瞬間の、互いのとりうる戦術や、互いに対する認識と誤認の様態を描かれていておもしろい。

さて三年ぶりに彼女にめぐり会ってみると、彼の情熱はふたたび眼をさました。いよいよあの女をわが物にする決心が必要だと彼は考えた。その上、彼の内気さは陽気な連中と接するうちにすり減らされていた。そして彼は、パリの大通りのアスファルトをエナメル靴でふんだこともない者どもを軽蔑しながら、田舎へ帰ってきたのであった。勲章も馬車もある名医の客間で、レースをまとったパリ女のそばへ出ては、一介の書記に過ぎないレオンは、さすが子供のようにふるえもしたろう。しかし、ここルアンの船着場で、こんなやぶ医者の細君が相手なら、向うを眩惑させるだけの自身は持ち合わせているので悠々としていた、度胸のあるなしは度胸をすえる場所次第である。上流の住む中二階と、中流以下の住む五階とでは、物のいい方を変えねばならない。そして金持の女はその貞操を護るために、まるでコルセットの裏に鎧でもつけたように、からだのまわりにありったけの札びらを巻きつけているとみえる。
(『ボヴァリー夫人(下)』岩波文庫版、105−106ペ)

後年の『感情教育』については、P・ブルデューによる分析の素材となっているけれど、本書も(それがどの程度フローベールが生きた時代の社会構造を精緻に反映しているかどうかは別として)ひとつの社会認識論、間主観性の世界の認識論としての性質を有していると思う。

ただ下巻終盤の破局のできごとの数々の記述は、物語のスレッドが時間や場所や人物、現実と幻想のあいだを目まぐるしく遷移しながら進んでいくので、ちょっと散漫な感じを受けてたのしめなかった。