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V・ウルフ『ダロウェイ夫人』再読

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

ダロウェイ夫人 (集英社文庫)

2年ぶりに再読。最近岩波書店から発刊された『船出』上巻を読んで、その作中にダロウェイ夫妻が登場するので、下巻が発刊されるまでの間にもう一度読んでみたくなったのです。

わたしは一度、サーペンタイン池に一シリング銀貨を投げ入れたことがあった。でもそれだけ。だけどその青年はそれ以上のものを投げ出したのだ。わたしたちは生きつづける〔・・・〕わたしたちは年をとってゆく。だけど大切なものがある──おしゃべりで飾られ、それぞれの人生のなかで汚され曇らされてゆくもの、一日一日の生活のなかで堕落や嘘やおしゃべりとなって失われてゆくもの。これを青年はまもったのだ。死は挑戦だ。人びとは中心に到達することの不可能を感じ、その中心が不思議に自分たちから逸れてゆき、凝集するかに見えたものがばらばらに離れ、歓喜が色あせ、孤独な自分がとり残されるのを感じている──だから死はコミュニケーションのこころみなのだ。死には抱擁があるのだ。〔328-329ペ〕

『船出』よりは読みやすい、でも『私だけの部屋』よりは読みにくい。そう感じました。ともあれ。自身のこころの感じたままに行動し、感じたことをそのまま言葉にすること。たとえそれがシェルショックによって連続性を喪失しひどく混乱したものであっても、他者による矯正に屈しないこと。自分自身を保ちながら他者に対峙し続けること。けれども当の「自分」の本質はいったいどこにあるのか? 仮にそれがあるとして、それだけに頼って私たちはこの生を耐えることができるのだろうか? 例えばクラリッサはダロウェイ夫人という立場に、ピーターは大英帝国の官僚という立場に自身のアイデンティティが分かちがたく結びついてしまっているのに?──そのような問いかけを聴いた気がします。