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オースティン『自負と偏見』

自負と偏見 (新潮文庫)

自負と偏見 (新潮文庫)

 屈辱的な、しかし正当な非難が自分の家族に向けられている箇所まで読み進めると、エリザベスは言いようのない恥ずかしさを覚えた。ミスター・ダーシーの批判は痛いところを突いているし、言い分の正しさは否定しようがない。ネザーフィールドの舞踏会での一連の出来事によってベネット家の人々に対する悪印象が動かしようもなくなったとミスター・ダーシーが書いているが、彼に縷々説明されるまでもなく、その場に居合わせた自分こそ顔から火の出る思いをしたではないか。
 あなたとお姉さまだけは別だという但し書きは、いささかの救いではあった。とはいえ、その程度の慰めでは、他の家族全員がわざわざ自分から軽蔑を招いたやりきれなさは消えない。──ジェインを失恋させた張本人は、血を分けた家族たちなのだ。あそこまでわきまえのない振る舞いをされては、ジェインと自分の信用もひどく損なわれたに違いない。そう考えると、今まで味わったこともない憂鬱が襲ってきた。〔333-334ペ〕

ヴァージニア・ウルフ講演原稿からのリンクで読む。

新興の中・上流階級と今やその地位を脅かされる立場にある貴族階級の成員の男女それぞれがもつ「可能態の世界」。自分の地位・性別により許された振舞い(しかしまた自分の地位・性別からして求められる振舞い)。可能なことの視野(したがって不可能なこと死角)。

何と言っても読んでいてたのしいのは、精神的な面ではいくら「自由」であっても、出自や財産の面ではどうしようもなく「不自由」な主人公、分裂した自我に悩まされる「教養はあっても財産・権限は持ち合わせない」人びとの表象を一身に担うエリザベスの葛藤。

実際には収入の差はあれいずれにせよ地主階級を形成していたベネット、ビングリー、ダーシーのような家族の生活空間は、労働者や下級の官吏や法曹や軍人たちの生活空間とはより厳しく隔絶されていたわけだけど。女性でありしかも限嗣相続の制約のもとに生まれた主人公の立ち位置が、階層内・外での上昇移動をさまたげて「教養」や「意欲」を阻害しているという認識をいや増す。

そういう背景のもとに、ベネット家の面々にはそれぞれの「性格」が割り振られている。ジェイン−エリザベス−メアリーは「教養」や「良識」や「社交性」のグラデーションを形作り、リディアは「結婚」という達成の機会に対する優先順序の点でも、母親からの「甘やかし」の点でも極端を示す。エリザベスとミスター・ベネットがともに多くの点でジェントリの「理性」を示しながらも、次女がその父親に対して一度ならず失望を味わうシーンは、性別・ジェンダーの境界線を明に暗に表現している。

そうした諸相を、ときに嫌悪し、ときに恥じ入り、しかして同情や共感をもって眺める主人公はオースティンの代理人であり、ときたま作者の代弁者となる。それをウルフはあまり感心しないことと指摘しているけれど、わたしにはそれも含めて──オースティンがここぞという場面で自分の意見を熱弁せずにおけなかったという事実も含めて、楽しむことができた。