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ジュール・ミシュレ『山』

山

近代歴史学の父(のひとり)が残した散文調の読み物の一。装丁が面白くて目を引く。しかし翻訳がひどい。以下、すこし長いが引用しておきたい(24-25ページ。引用文中太字にした箇所は、原典では傍点が付されている)。

 恐るべき高度の才能に恵まれたスカンジナビアの伝説は、かつて山の恐怖を風変わりなやり方で表現した。山は宝物に満ちみちていて、醜悪な地の精や、桁外れに力もちの小人によって守られている。氷の山の宮殿には一人の処女が君臨していて、ダイヤモンドの王冠を額に戴き、あらゆる英雄たちを挑発し、冬の肌さすように鋭い矢よりもさらに残忍な笑いでもって、彼らのことをあざけり笑う。彼ら無謀な人々は登ってゆく。死の床に到着し、水晶の妻と永遠の婚礼をとり結び、そこに釘づけとなって留まるのだ。
 そのことで人は思いとどまったりはしない。山頂部にいる残酷で誇り高い女は、たえず恋人をもつであろう。つねに人は登ろうと欲するだろう。猟師は言う、「獲物を求めて」と。登山家は言う、「はるか遠くを望むために」と。そして私は言う、「一冊の本を書くために」と。〔…〕
 こうしたすべての努力の内なる現実は、人は登るために登るということである。
 崇高なこと、それは無用なことである(ほとんど常に)。〔…他の例と同じく…〕モン・ブランへの登攀も、ほんのわずかしか役立たなかった。そこでなされた体験は、もう少し低い山でもなされていたのである。ソシュールが二七年間、身支度しつつ、モン・ブランの回りをへ巡りながら探し求めたもの、そしてラモンが十年間、同じようにペルデュ山で求めたもの、──それはそこに登ったという事実だったのである。

「冬の肌さすように鋭い矢よりもさらに残忍な笑いでもって、彼らのことをあざけり笑う」とか、「釘づけとなって留まる」「すべての努力の内なる現実」「崇高なこと、それは無用なことである」とかの部分は、翻訳する際にもう少し何とかならなかったものだろうか?

ともあれ、引用箇所に示されている近代の理性主義への著者の絶対的信頼や、文化活動を真に高潔なものとして捉える態度(「崇高なこと、それは無用なこと」)、さらにまた別の箇所で示される「〔アルプスの山々が見せる景観は〕あまりにも一般化した衰弱の時代における、心の気付け薬である」という時代認識(9ページ)──これらのいずれも、私にはおよそ150年という時間的隔たりを実感するきっかけとなる。

それを読むことで、著者がまさに論述している対象だけでなく、著者の論述の前提にある事項、コンテクストについてまでも何がしかの理解や気付きをもたらしてくれるもの。そこからさらに進んで、読者自身の現実認識についての反省的態度を誘導するもの。私にとって、それこそが「面白い本」の条件である。というわけで、まあ翻訳の良し悪しはいったん脇において読み進めてみようと思う。