M12i.

学術書・マンガ・アニメ・映画の消費活動とプログラミングについて

柚木麻子『早稲女、女、男』

早稲女、女、男

早稲女、女、男

『終点のあの子』『けむたい後輩』と同じく、学校(というか学生社会)を舞台にして、主人公たちの差異化への挑戦や挫折その後の回復(それは所属階級の上昇であったり再定義であったりする)を描く連作。

今回の登場人物たちは、ある単一の学校ではなくて、別々の大学に所属している点がちょっと異なるところ。各話の主人公たちとその在学校の生徒一般には、趣味嗜好や性格的な特徴(ハビトゥス)の類型が割り振られており、それを主人公たち自身が口にしたり実践したりすることで物語が進行していく。それらの性格付けがどこまで本当でどこまでがこじつけとしか言いようのないものであるかは問題ではない。

主人公たちの中でも中心に立つ早稲田の早乙女は「生まれながらのエリート」。ノブレスオブリージュを地で行き、周りからすれば場違いと映るフェアプレー的な言動をほとんど条件反射としてとってしまう。彼女と彼女の妹がどちらも父親似の男性の側にいることは、たぶん家族の中で(どちらかといえば)父親の社会的所属が子どもたち世代のそれを規定しやすいという社会学的なセオリーに基づくものであり、早乙女がなるべくしてなった「貴族」であることの示唆と思われる。

そういう早乙女の言動は、偏差値も知名度も同レベルだけど「生真面目な努力家」であり、勤勉さの結果する「後天的な貴族」であるが故に、自分たちに期待されている役割について意識的でありつづける慶応の学生・慶野からすると、「皆の手本となるように人一倍努力し輝きを放つのが学歴に恵まれた人間の義務なのに、それをはなから放棄し気ままに生きている風を装うところが嫌みったらしい」ということになる。

一方、青山学院の青島は、『感情教育』のフレデリック、『アンナ・カレーニナ』のカレーニン夫人のごとく、淵野辺のキャンパス時代に出来上がった「身の丈にあった」(しかし退屈でもある)生活と青山キャンパス時代に出来上がったより「きらびやかな」(しかし背伸びした)生活の間を往復運動した挙句、旅行先で同道した早乙女に薄っぺらで内容空疎な趣味を糾弾されてしまう。

万事こんな具合で、彼女たちが自分と相手のそれぞれの性格や地位について、互いに軽蔑したり、羨望したり、勘違いしたりを繰り返したあとで、自分自身の居場所を見つけていく過程が面白い。


柚木麻子『けむたい後輩』 - M12i.