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堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)

「あら、又、栗が落ちた……」彼女は目を細目に明けて私を見ながら、そう囁いた。
「ああ、あれは栗だったのかい。……あいつのお蔭でおれはさっき目を覚ましてしまったのだ」
 私は少し上ずったような声でそう言いながら、そっと彼女を手放すと、いつの間にかだんだん明るくなり出した窓の方へ歩み寄って行った。そしてその窓に倚りかかって、いましがたどちらの目から滲み出たのかも分らない熱いものが私の頰を伝うがままにさせながら、向うの山の背にいくつかの雲の動かずにいるあたりが赤く濁ったような色あいを帯び出しているのを見入っていた。畑の方からはやっと物音が聞えだした。……(157ペ)

「私」は、サナトリウムでの生活の中で、自身を取り巻く風景や物音のなかに「私達の生の果実」(155ペ)がいかなる局面を迎えているのかの隠喩/迫り来るなにものかの“兆し”を見いだしている。そうしてその「私」の風景描写をとおして、読者である私たちはそこに秘められた登場人物たちのこころを推し量ることになる。それは「私」と「節子」が無言のうちに互いの仕草や会話の“間”から意思を伝え交わす様にも重なるようで面白い。いずれにせよ非常に凝った表現法。

ジブリの映画『風立ちぬ』を観たのをきっかけに本書も読むことになったのだけど、映画のほうはもちろんフィクション。複数の物語がミックスされている。ただそうではあっても映画で描かれた風景や主人公たちの心情は本書の理解にも大いに影響を与えていると思う。富士見高原には親戚の別荘があり、私も幼いころに繁く滞在をしていた。この体験も同様に影響を与えたろうと思う。白樺や落葉松の林、八ヶ岳と南アルプス、裾野に広がる畑、ところどころの渓谷と河川。それらを思い出しながら読んだ。