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『コクリコ坂から』のマンガとアニメをくらべて

コクリコ坂から (角川文庫 み 37-101)

コクリコ坂から (角川文庫 み 37-101)

アニメにつづいてマンガのほうを読み始めて、時代設定からしてちがう(ざっくり15年くらいか)ことは当然すぐに分かったけれど、ラストまで読み終えたところで「アニメ化するにあたってよくもまあここまで物語を組み替えたものだ」とかなりいい意味に感心している。

あまり身も蓋もない比較をしても仕方ない、ともかくマンガとアニメの間にはいくつも共通点や相互に対応するひと・もの・ことが登場する。

けれどもマンガでは、おそらく背景設定として規定はされていても物語の筋のなかではほとんど、もしくは、まったく触れられていなかった情報──アニメ版を先に観てしまったことによる先入観がそう感じさせているだけかも知れないけど──があって、アニメ化する際にはこれらの背景情報をすくい上げている。

その上それらの情報を、マンガでも描かれた主人公たちの恋物語とあわせて大々的に構成変更をすることで、(先述のとおり)アニメ版の『コクリコ坂から』は、過去の再評価と世代間のなにがしかの継承関係について語りかけるものになっている。

そしてそれはカルチエ・ラタンの存廃を巡る学生討論会での次のような発話によってかなりあからさまなかたちで象徴されているように思う。

古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか。
人が生きて死んでいった記憶を蔑ろにするということじゃないのか。

不思議なのはどうやったら、何をきっかけにしてこのような再構成を企図することができたのだろうということ。ふつうこのマンガを読んで、あれこれの背景設定の存在に気づいて、それを掘り出した上に再構成する、なんてことはやれない。

なんだかマンガ版に対して失礼だなと思いながらもそこらへんに感心しきりで読了した。