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柚木麻子『終点のあの子』

終点のあの子 (文春文庫)

終点のあの子 (文春文庫)

登場人物と舞台となる場所は(ほぼ)共通だけど、それぞれの章で異なるテーマがある。とりあえずここでは第一章の「フォーゲットミー、ノットブルー」について。

「朱里と、希代子は違う人間だ。同じことを感じられるわけがない。朱里だけでなく、恭子さんとも、森ちゃんとも、保田さんとも、アッキーとも、どのクラスメイトとも。同じものを見て、まったく同じように感じることなんてあり得ない。/朱里を皆で攻撃することで自分たちは同じになれたと思っていた。それは間違いだ。きっと皆、それぞれ違う思いを抱きながら、大きな流れに従っていただけだ。」(フォーゲットミー、ノットブルー)

著者が意図的にそうしたのか、それとも無意識のうちにこうしたのか…つまり希代子の独白を通してある真実を語らせた上でこの(やはり彼女の独白として表現された)結論のなかでは語らなかった問題。

つまり、一方ではまさにそのように「人それぞれ」であるからこそ、日常のなかで半意識的な慣習行動として、しかしときとしてその強引さや葛藤を垣間見せながら行われるクラス内・クラス横断的なグルーピング。そこでは架空の(だからといって現実的効力を持たないということではない)同質性が構築されていること。それは必要とあらば手段としての明白な排斥行為すら用いて行われていること(いじめは一時的であれ同質性を構築するために採用される手段のひとつである)。

また一方では語り手=分析者としての役割を振られた希代子が、物語終盤には意識的に周囲のメンバーを動員して「大きな流れ」を操作しようとしたこと/操作してみせたこと。日々に構築され再生産されるグループには、中心となるメンバーがおり、彼/彼女は制限されたものであっても必要に応じて他のメンバーを動員できる権力を持つ者たちである。周辺のメンバーから差異化し/差異化された中心的メンバー。朱里と希代子はそれぞれのやり方でもってこの差異化の実践を行っていた。

前述の結論的独白はある真実を語る一方で、小話中に希代子を通じて語られていたもう一段先の真実には言及しない。そこが「フォーゲットミー、ノットブルー」の意味深長なところであった。