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学術書・マンガ・アニメ・映画の消費活動とプログラミングについて

渡辺優『自由なサメと人間の夢』

自由なサメと人間たちの夢

自由なサメと人間たちの夢

この人の一人称小説が好きです。

『ラメルノエリキサ』の主人公のようにアイデンティティを苛む劣等感から自身を護るために過剰に攻撃的な態度をとったり、本書収録「ラスト・デイ」の主人公のように、不意の・所与としての死への恐怖の反転ともとれる意図された・獲得される死への衝動に突き動かされたり。

そういう多分に自覚的な狂気の中をいかにも愉しげに・必死に生きる彼らが、物語を通じて結局はわりとまっとうなところに落ち着いていく、自分自身とそれを取り囲む家族だとか友人だとかのなかに再統合されていく姿というのは、ちょっとさびしくもあり、またちょっとほっとさせられてしまうところもあり。

にしてもやっぱり短編よりは長編のほうがいいなぁ、と。

二子玉川の蔦屋家電で毒気にあてられた

二子玉川の蔦屋家電の店内をフラフラしていると一種の毒気に当てられた状態になります。最近発売されたとあるAV機器の取扱店だと知り行ってみたのですが後悔しました。。

そこは、自分たちの生活を、あるいは自分の家族のライフスタイルを、つまり自分とその自己実現の協力者かつ代理人(夫/妻)と自分が成し遂げられたものと成し遂げられなかったものとの相続人(息子/娘)の生の表象を、理路整然と作り上げようとする意志に満ち満ちている。あるいは、満ち満ちているように空間演出されているように感じるのです。

住まい、食事、美容、それらがテーマでカテゴライズされた書籍たちとともに並列にカテゴライズされ空間配置された家電たち。書籍の中に文字や写真で以て示された生活と、それらの具体的な資材となるべく用意された家電。それらの書籍・雑誌や家電製品に手をのばしたり、それらについて随伴する人間と話しながらそぞろ歩くこと、それはすなわち自分たちの生活をデザインし、デザインしている自分たちというその瞬間そのものをデザインしようとするような、そういう実践なのではないでしょうか。

もちろんここでいう「実践」というのは日常的・慣習的な行動という意味で、構造化され・構造化する構造としてのハビトゥスに起因するもの。店内を歩き、商品に手を伸ばし、スタバのカップを片手にソファにくつろぐ人びとが、意気込んだり狙いすましたりしてそうしているという話ではありません。むしろその逆に「自然に」そう振る舞うこと。それが実践であり、それをできることがこの場にふさわしい人間です。

ともあれ。とにかく何が言いたいかというと「とっても息苦しい」。別に蔦屋家電が特別にそうだということはなく、この街そのものがそういう空気に満ち満ちている。それでもこの店内は余計にそう感じるのです。